支部活動報告



新建築家技術者集団 第31回 全国研究集会 in 犬山


第31回全国研究集会in犬山報告

 去る11月17日〜19日で、愛知県犬山市で全国研究集会が開催され、プログラムの一つとして記念講演が行われました。
今年2月に亡くなられた延藤安弘先生のまちづくり活動の軌跡が題目で、講師は名畑恵さんです。タイトルは「まちの縁側と延藤安弘」の物語り計画〜おわりははじまり」でした。

 名畑さんは17年前に撞木館の保全運動に携わっていたときに、千葉大学から名古屋に通っていた延藤先生と出会いました。以来、先生と行動を共にし数多くのまちづくり活動に参加、現在は延藤先生が立ち上げたNPO法人まちの縁側育み隊代表理事を先生の後任として務める一方、物語り計画への取り組み、延藤先生が人生を掛けて取り組んできた長者町の街づくりに関わる錦二丁目エリアマネジメント株式会社代表取締役としてもご活躍されています。
彼女は、先生との最初の出会いである撞木館での活動を通して、元々あった建物への興味だけでなく、地域やそこに集う人々、建物の保全にも関心が向き、そのことが今の活動に繋がっているそうです。元々「撞木館育み隊」として活動をしていた名畑さん達ですが、撞木館が名古屋市の指定有形文化財として守られることになり組織の役割を終えたとして、「まちの縁側育み隊」が新たに誕生したのです。

「まちの縁側育み隊」は、延藤先生の提唱する「まちづくりからまち育てへ」つまり、ハード、ソフトそしてハートを備えた物がまち育てである、と言う考えを基に活動しています。
また、価値づくりの計画、即ち価値・目標を生み出す計画と言う考えが後に物語り計画に繋がっています。
講演では、先生のこれまでの活動の紹介に加えて、活動に際して先生がどのように考え行動してきたか、その根底にある物は何なのか、等をとても丁寧に紹介してくれました。一番近くで先生の活動を見てきた方ならではの視点を感じられる楽しくも深い内容でした。

まちの縁側育み隊とは、まち育て支援・まち育て人材育成・まち育て交流拠点運営を柱に活動されています。公共施設や公共空間を作る際、ワークショップの企画やコーディネートが主な内容になります。参加者の意見を聞いて可視化し、議論の到達点を共有しながらステップアップしていく、と言うことが支援のポイントです。コーディネーターとして何もかも主導してしまうのではなく、あくまでも主役はまちに集う人々であり、彼等の言葉を拾い上げることで自分達がまちづくりの主役なのだ、という意識を持ってもらう事が延藤先生の教えだと言う事でした。
京大時代に携わった神戸市真野地区まちづくりの経験、地区計画の制度化、構想自体が人と人の繋がりを育む、地域を運営する仕組みを持つことが錦二丁目まちづくりに影響を与えています。その後も真野地区とのかかわりは続き、阪神大震災の後には音楽付きの幻燈会を行い寄付を集めたりしたそうです。
コーポラティブハウスユーコートにも携わっています。ユーコーとでは、30年経った今世代交代が進み、第2世代が6世帯住んでおり、世代交代ができるマンションとして注目を集めています。
また、熊本の設計者である高木淳二氏に依る延藤先生の分析として、方言を用いて計画書を作る、みんなからの発言をメモにしてそれを基に進め方の構図を作る、レイアウトのコンセプトもその場で作る、専門家を鼓舞する手紙を書く、工程表を書いて進め方を提案すると言った、先生・編集者・タレント・芸人の才を備えた技術者であり教育者だそうです。書く=ペンの力が物凄く、PEN藤先生ともお呼びしていた様です。
2005年からは台湾大学の客員教授として台湾に通い始め、アミ族と言う溪洲部落48世帯の居住地再建設に10年程携わっていました。これは住民達が川の畔を不法占拠していた物ですが、何十年も住んでいたため行政に対して居住権を主張していました。延藤先生は住民側に立って支援をして行きます。
集落のなかに6つの縁側があり、そこでは子供たちに食事を提供したり床屋をやったりしていました。住民たちが行政によって壊された住居を居住権の主張のみで建て直している所、先生は暮らし振りの素晴らしさに着目し、住民たち自ら再建設の提案をするように指導しました。住民たちに自分たちの暮らし方の美しさに気づいてもらうために幻燈会を開き、それに依って彼等も誇りを取り戻してくれたそうです。
日本で培ってきたワークショップの手法をここでも実施し、この活動に意味があるのか、と疑問を呈した台湾大学の学生に対して珍しく声を荒げて「小さい事から変えていかなくてどうするんだ」怒ったそうです。小さな実践から社会を変えていく、と言うことが先生の思想の根底にあります。
元々建設労働者だった住民達には自分達で住宅を建設する力があり、先生は彼らがセルフビルドで家を建てることにこだわっていました。活動を重ねるうちに、行政側から住宅を合法的に建設できるという話が提示され、別の集落で若者向けに新しく奇麗に整えられた画一的な土地に建売住宅を建設するという話が出、溪洲部落も同様のプランに変更させられると聞いたときにはすぐに台湾に飛んで行き、行政に対して自分達の暮らし方の素晴らしさを論理的に主張する手助けをしました。結果当初の計画通りに進めることができ、溪洲の人々は先生にとても感謝しているそうです。

錦二丁目・長者町繊維街には、ビルに大きな壁画看板があります。隊のアーティストが描いてくれた物で、街のキーパーソンにとことんヒアリングをし、その内容を元に一枚の絵に仕上げています。遠藤先生は車の免許も無いのに車に乗った姿で描かれています。これは、先生がいつも長者町中を入っている=レーシング長者町と言う意味合いが込められているそうです。
 ちなみに名畑さんは各メンバーのアポ取りでいつも電話をしていたイメージから、電話交換手の様に描かれています。
いつでも住民側に立ち、そこに集う人たちが主役になる活動をしてきた先生の人となりが良く表れている絵だと思います。

最後に、先生は何万冊と言う本を所有していました。絵本ギャラリーカフェや哲学カフェ等が実現できれば、と言うお話をされていたそうです。また、まちの縁側育くみ隊では、先生が遺した膨大な資料等の文庫化を計画されているそうです。先生のこれまでの活動をを次世代に継承していくためにも、やり遂げて頂きたいと思っています。
                                                                                                                          ( 愛知支部 中森 重雄 )